短編「下書き保存」

 宮本君。「言葉は自分じゃなく他者の為にあるんだよ。人生は他者だ。だから辛い時は誰かに宛てた文を書くと気持ちが落ち着くんだ」とか、確かなんかそんな感じのことを言っていましたね。それで、君が辛い時、実際に私に何度もメールを寄こしましたね。それを思い出して今これを書いています。誰かに宛てた文を書いてみようと思います。つまり、君のつまらない言葉にすがらなければならない程度に、今私は辛いということです。どうして君なんかの言葉に頼らなきゃいけないんでしょう。自分がみっともないです。悔しい。みじめだ。でも確かに、宮本君が言ったことも一理あるのかもしれません。私はいつも自分のために言葉を使ってきたと思います。自分が気持ちよくなりたいから。自分が憎しみを発散させたくてたまらないから。自分が悲しくてわかってもらいたいから。そんな風にして私は私のために言葉を使ってきました。宮本君相手でもその基本は変わっていなくて、けれど、その態度が間違っていたとは私は思いませんし、これからも私は自分のために言葉を使っていくのだと思います。しかし、一度くらいは、君の言う通り他者に言葉を宛ててみるのもいいかと思ったのです。聞いてください。

 用件ですが、デブが嫌いになりそうです。デブというだけで無条件にその人を嫌いになりそうです。それは嫌なのです。宮本君は私の事を下に見て馬鹿にしていましたが(気付いていないと思いましたか)、私はこれでもそれなりに矜持のある人間(そのあたり君は、私の感受性の低さと頭の良し悪し、矜持の有無とを一緒の問題にして私を見下していましたね)なのでレッテル張り、つまり、どういう生まれとか、体形とか、そういう外面的条件だけで人を決めつけたくないと思っているのですが、三つ続けて嫌いな相手がデブになると流石に私も限界です。確率論的にデブは嫌い、となってしまいます。課長のデブ、同期のデブ、これに加えて取引先のデブが来ました。課長と同期については散々君にも愚痴を聞かせたかと思いますが、これらも相変わらずです。それは今はよくて、目下問題は取引先のデブなのですが、これは二日前の話です。

 午前中のアポが終わったので、昼でも食べるかかと最寄りのサイゼリヤに寄ってあさりのスープパスタを店員さんに注文し、煙草に火を付けたところで横から声がしました。

「あれ?杉山さん?」見ると取引先のデブが横のテーブルに座っていました。デブは私の会社の上得意先の担当者で、今まで四、五回ほど先方の会社で話をしたことがある程度でした。私は前々からこのデブから滲み出る中年男性の性的活力っぽさが少し苦手だったので、うわっまじかやっちゃったな、せっかくの休憩時間なのに、とかそういうことを思いながら手早く煙草の火を消しました(一応取引先なので煙草を吸いながら話をするわけにはいきません)。

「お昼?ってか、へえ、杉山さんって煙草吸うんだ」かすかに残る紫煙の向こうでデブが言いました。「でもわかるかも、杉山さん吸ってそう、クールっていうか美人って感じだし」見た目のきつさから性格もその通りだとみられることには人生を通して慣れているのですが(慣れているだけです)、私の全身を舐めまわすようなべたついた視線が不快でした。デブは見た目40代でシャツがはちきれそうなほど上半身がデブで、インナーシャツを付けていないのか、常にカッターから乳首が浮き出ていて、それが否応にも視界に入ってくるのが生理的に無理でした。

「吸うって、ほんの少しなんですけどね。デブもお昼ですか」私は社交辞令的に振舞いました。「うん、そう。えーでもさあ、会社以外で会うってのもさあ、なんか新鮮だねえ」デブは辛味チキンを食っていました。「え、でもさあ、煙草吸ってて、彼氏とか嫌がらない?嫌がるでしょ?」いきなりなんだよ。「いえ、特には」「あ、特には、ってことは杉山さん、彼氏いるんだ。やっぱりなあ美人だし、羨ましいなあ彼氏さん」うるせえよ、その顔と胸元交互に見てくるのまじで勘弁してくれ、と思いました。「え、何、付き合ってどれくらいになるの?」「いや、はい。まあいいじゃないですか」「えー何、冷たいよ杉山さん。教えてよ。え、どれくらい?頻度。どれくらいしてるの?」私は内心愕然としました。「ちょっと、セクハラですよ」角が立たぬような声色と表情を努めて私は言いました。「出たよセクハラ。あのさ、最近さ、そういうの多いと思わない?」「いや、わかりませんけど」「すぐなんかあるとさ、セクハラセクハラって騒ぎ立てるの、最近の若い子は。俺が若い頃はさ、もうなんでもありよ。飲み会で酔っぱらって若い女の子の前でチンコ出したり胸揉んだりさ。そういうのに比べたら俺のなんて屁みたいなもんでしょ。だいたいさ、杉山さんも気を付けた方がいいよ。まだまだ男社会なんだからさこの世の中、そういう下ネタにも耐性」

「お待たせしました、あさりのスープパスタでございます」

そろそろ限界だな、というタイミングであさりのスープパスタがやってきてくれました。店員さんありがとう。私は「あ、すいません、次のアポあって、急いでるんで」と言って、あさりのスープパスタを勢いよく、ずずっは、ずずっはと食べました。屈辱的でした。デブは「そう」と言ったきりそれ以上は話しかけてきませんでした。

 結局はよくある話なのかもしれません。よくいるセクハラ中年男性に嫌がらせを受けたよくいるOL、ということだけなのかもしれません。けれど、この事実は私を極めて不愉快にしました。

 何がそんなに不愉快だったんだろう?私なりに二日考えて、出た結論があります。

 ひとつめは、純粋に性的な言動を乳首の浮き出たデブ中年男性に性的なことを言われて嫌悪感を覚えたということ。

 ふたつめは、デブの言葉によって私という存在が勝手に彼の中で定義づけ、象徴化されたことに対する不快感があったということです。

 私は、このふたつめが特に重要だと思っています。思い返せば、私は慣れているだけで、他人の言葉に決めつけられることが多い人生だったように思うのです。見た目がきつそうだから、地毛が茶髪だからヤンキーなんでしょとか、いや逆に本当は軟弱なんじゃないのとか、何あんた本ばっかり読んでて偉そうにして私達を見下してるんでしょとか。

 お前らに何がわかる?人のことを、人の心の中を想像する力もない人間が、一方的に私を言葉で定義する。決めつける。象徴化される。勝手に納得される。これは、私にとって耐えられないことなのだと、この二日で気付きました。

 宮本君。嫌なことばかり思い出します。何年前でしょうか。君のアパートで「ライフ・イズ・ビューティフル」を見た時のことです。君はDVDを取り出しながら「マイフェイバリットなんだ」と幸せそうに私に言っていて、私も、ああそうなんだ、宮本君がそんなに気に入ってる映画なんだったら見てみようかな、と思っていました。映画が始まり、古ぼけた映像と一緒に「ナチス占領下の悲惨な状況の中でも希望と明るさを失わず、たくましく生きる人々の美しい姿」(宮本君談)が描かれていきました。映画終盤、今にも銃殺されんとする父親が子どもに向かっておどけた姿をみせるのを見て、宮本君は泣いていました。私はその横顔を見ていました。映画が終わり、宮本君は涙をぬぐいながら「生きてる。生きてるって感じ」と言いました。そして「ねえ、どうだった?」と私に訊いてきました。私は「よかった、よかったよ、感動した」と答えました。

 今だから言いますけど、私、あれ、全然わかりませんでした。

 だってあれ、子どもにはゲームってことにして収容所での苦境を乗り切っていこうとしますけど、収容所の同室の方たちは無理やりあの親子に付き合わされて迷惑じゃないですか?もし私があそこにいたらキレてると思います。うっせーガキがよー!迷惑かけてんじゃねーよ!ってキレてると思います。そこはもちろん、人間の善性を信じるというテーマのもと、同室の皆さんも奇跡的に全員善人であったということなのかもしれないのですが、私にはお気楽なご都合主義に映りました。そもそも人間の善性など信じられるものでしょうか?私は信じられません。象徴化。決めつけ。世の中はデブばかりです。そもそも私が善人じゃありません。だから、「ライフ・イズ・ビューティフル」という言葉を信じることができる宮本君はきっと善人で、人の善性を信じられて、私は、そんな宮本君のことがうらやましかったのをすごく覚えています。だから、単純に言って私は宮本君のことが羨ましかったのです。純粋な創作物に涙して、人間の善性を信じることが出来、人の幸せを願える宮本君が羨ましかったです。

 でも宮本君。これ書いてて私思い出しました。このメールの最初に書いた「人生は他者だ」ってあれ、映画の中の台詞ですよね。この前なんとなく借りた「永い言い訳」って映画の中で本木雅弘が言ってました。「人生は他者だ」って。

 借り物の言葉。借り物の信念。借り物の告白。借り物のキス。借り物のセックス。

 「人の言葉で語って何が悪い」という問題はここでは扱わないでおきましょう。一番の問題は、宮本君と私、その関係性、あの関係性の中で借り物が大半を占めていたということなのですから。

 宮本君。本当の言葉でなければ届かないと私は思っています。ここでいう「本当」とは、その人自身から出た言葉ということです。本当の言葉。本当の信念。つまり私は今、私自身の言葉で、本当の言葉でこの文章を綴っているのです。

 けれど、この文章がきみに届くことはありません。

 宮本君。君の連絡先はスマホから消去してしまいました。写真もすべて消しました。私、そういうの嫌なんです。だから消しました。君の痕跡は、私のスマホに跡形もありません。だから私はこの文章を書いていて、宮本君に宛てて書いていて、でも誰に宛てるでもなく書いているのです。本当は君に宛てたメールなのですけれど。

 宮本君。届かない言葉や思いはどこにいくのでしょう。借り物の言葉、消された連絡先、そういったものの行きつく先はいったいどこにあるのでしょう。

 宮本君。君の言葉は借り物ばかりでした。君のおすすめしてくれる映画も、本も、音楽も、誰かが作った借り物ばかりでした。誰かが作ったものばかり、誰かが言った言葉ばかり、私に伝えてきましたね。

 宮本君。今、どこで何をしていますか。