強豪相手に引き分けたい――パク・ミンギュ『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』

 朝五時に起きる。身支度をして、六時には家を出て、六時十三分発の電車に乗って通勤途中で資格の勉強。七時にいつもの喫茶店に入って半熟目玉焼きのモーニングとアイスコーヒーを注文する。今日のノルマが終わるまで喫茶店でも勉強。終わったらモーニングを食べ終えて、煙草をふかし、アイスコーヒーを飲んで、バーチャルユーチューバー東雲めぐちゃんの朝配信を見る。八時二十分に出社。十七時半退社。家に帰ったらだらだらとツイッターやYoutubeの配信を見る。二十三時か零時には就寝。

 

 ここ半年ほど、日記というか、いわゆる「ブログ」というものを更新してこなかった。理由はいろいろとある、というか、ひとつしかないとも言える。文章を書く気力が起きなかったのだ。この半年間でいろいろあった。

 半年の間に、僕は会社を休職して、復職した。四か月間、会社を休んでいた。

 じわじわと真綿で首を絞められるように社会人としての生活が苦しくなっていって、二月の末に決定的なことが起こった。何があったか、詳しいことは以前の記事を参照してほしいのだけれど、不当な人事考課と、その人事考課を根拠にした人事からの過剰なパワハラ、それをきっかけに心の病をこじらせ、僕は会社に行けなくなってしまった。

 休職の日々は本当につらかった。と過去形に出来るほどまだ時間は経っていないのだけれど、本当につらいのだ。毎日外に出なくては本当に腐ってしまうと考えて、努めて外出するようにはしていたけれど、自宅と近所のドトールとの往復の日々になってしまう。何の目的意識も生活習慣もなく繰り返される泥のような日々の中で、僕はどんどんと沼に沈んでいくような心持だった。

 パク・ミンギュ『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』は、そんな休職期間の初日に買った本だった。「これから休みます」と会社を出てスーツ姿、死にそうな足取りで向かった梅田の丸善ジュンク堂書店でこんな惹句が僕の目を惹いた。

 

「一割二分五厘の勝率で僕は生きてきた。まさしく三美スーパースターズの野球だといえる」

 

三美スーパースターズ最後のファンクラブ』は、韓国のプロ野球界に実在した史上最弱チーム「三美スーパースターズ」の熱狂的なファンである少年が辿る人生の物語だ。「三美」はとにかく弱い。もともとあったプロ野球チームから寄せ集めで作られたチームだから、とにかく勝てない。十回戦って一回勝てるかどうかなのだ。それでも主人公は少年時代、「三美」を応援し続ける。そして徹底的に裏切られ続ける。それでも応援し続ける。

 これって要するに人生のことだ。

 僕たちの人生、どれだけ勝つことが出来るんだろう?そして僕たちはどれだけ負け続けてきたんだろう?これから負け続けていくんだろう?

 こんな文章が作中にある。

 

「平凡なチーム三美の最大の失敗は、プロの世界に飛び込んでいったことだ。(中略)大変なことだ。世の中はもうプロの世界になっており、平凡に生きていったらプロの世界では間違いなくビリなのだ。(中略)ああ、実にプロの世界とは恐ろしいものだと十六歳の僕は思った、じゃあ、平凡な人生にも届かない、そこからちょっと落ちる人たちは何位になるんだろう?それは野球でいえば放出だ、人生でいえば撤去または死。そんな人生は順位のうちに入らない。平凡な人生を生きてすら、目に土をすり込まれるほどの恥辱を味わうのがプロの世界なんだから」

 

 そう、僕たちはすでに「プロの世界」を生きているのだ。もしくは「プロの社会」。必死こいて、汗水垂らして、頭下げて、媚売って、いいスーツ着てんね、いい煙草吸ってんね、おいもっと頑張れよ、お前のせいで後ろが詰まってんのが分かんねえのか、何やってんだ前を見ろ、頑張れ、もっと頑張れ、もっともっと頑張れって言われて死ぬ気で頑張って、でも「まあいいんじゃない?」としか言われない、「プロの社会」。そんな過酷な社会で、僕たちは生きていけるんだろうか?

 その問いに対する優しい答えが、本作では提示されている。

 物語が進むにつれ、主人公は挫折を次々に経験する。それでもなお、主人公が最後に辿り着く境地には、希望の光がある。

 最弱なはずの「三美」の野球こそ、理想の野球、理想の人生だというのだ。

 「プロの社会」において、周りに合わせること、空気が読めること、とにかく頑張ること、が美徳とされる世の中において、「捕れなさそうな球は捕らない」、「打てなさそうな球は打たない」野球を徹底して行った「三美」のプレイスタイルこそ、現代で実践されるべき、理想の生き方だというのである。

 僕は、ぽろぽろと泣いてしまった。

 負けてもいいんだと思った。負けに負けが続いた人生でもいいんだと思った。

 作者のパク・ミンギュは『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』を、韓国の経済悪化で街にあふれたホームレスたちに捧げるために書いたという。

 負け続ける人生。なかなか勝てない人生。それでもその人生の中にも理想はある。

 そう思わせてくれたのが『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』だった。これを休職初日に買っていた、ということにもなにか運命めいたものを感じる。読了して、僕は底なしの沼から少し引き上げてもらったような気持ちになった。

 

 いま僕は復職して、部署も異動になり、勤務地も変わって、休職の原因になったものから少し遠ざかり、少し環境はましになっていると感じている。今のところ。

 復職できたきっかけはいろいろあると思う。本を読み漁ったこと。勉強を始めて資格試験に通って少し自信がついたこと。服にはまって街を歩くのが楽しくなったこと。バーチャルユーチューバーにはまって生きがいが出来たこと。『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』を読めたこと。

 これからどうなるのかはわからない。わからないけれど、結局やっていくしかないのだと今は思っている。自分なりの「野球」をやっていくしかないのだ。

 

 そういえば、『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』を読了してからしばらくして、ワールドカップの実況を自宅のテレビでなんの気もなしに見ていた。試合が終わって、実況が言った。

「日本、大健闘です!強豪相手に引き分けに持ち込みました!」

 この言葉を聞いて、とても素敵だな、と思った。

 「強豪相手に引き分けに持ち込みました」。そう出来たらどんなにいいことだろう。野田洋次郎が「『死んだら負け』 知るか黙れ 今さら勝つ気などあるかよボケ」と言っていたニュアンスほど投げやりじゃないけれど、今の僕には、なにかに勝つつもりはあまりない。でも、強豪相手に、自分よりはるかに格上のなにかに、それでも引き分けに持ち込めたらとても素敵だな、と、今は思えるようになっている。

 これを読んでくれている人はどうだろう、と思う。今日も自分よりも格上のなにかと、強豪と、「プロ社会」と戦っている人たちのことだ。

 みんなそんなに気張らなくても、本当はいいのかもしれない。勝率一割二分五厘の「三美」が最後までその「野球」を貫き通して消えていったように、僕も、みんなもそれぞれの「人生」を生きていったらいいんじゃないだろうか。

 「プロ社会」に負けてもいい。そしてこの強豪相手に引き分けられたら、最高だ。

 そんな気持ちで、これからの日々を生きていこうと思っている。

 そう思わせてくれた『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』に、文学に、読書に今とても感謝している。

短編「下書き保存」

 宮本君。「言葉は自分じゃなく他者の為にあるんだよ。人生は他者だ。だから辛い時は誰かに宛てた文を書くと気持ちが落ち着くんだ」とか、確かなんかそんな感じのことを言っていましたね。それで、君が辛い時、実際に私に何度もメールを寄こしましたね。それを思い出して今これを書いています。誰かに宛てた文を書いてみようと思います。つまり、君のつまらない言葉にすがらなければならない程度に、今私は辛いということです。どうして君なんかの言葉に頼らなきゃいけないんでしょう。自分がみっともないです。悔しい。みじめだ。でも確かに、宮本君が言ったことも一理あるのかもしれません。私はいつも自分のために言葉を使ってきたと思います。自分が気持ちよくなりたいから。自分が憎しみを発散させたくてたまらないから。自分が悲しくてわかってもらいたいから。そんな風にして私は私のために言葉を使ってきました。宮本君相手でもその基本は変わっていなくて、けれど、その態度が間違っていたとは私は思いませんし、これからも私は自分のために言葉を使っていくのだと思います。しかし、一度くらいは、君の言う通り他者に言葉を宛ててみるのもいいかと思ったのです。聞いてください。

 用件ですが、デブが嫌いになりそうです。デブというだけで無条件にその人を嫌いになりそうです。それは嫌なのです。宮本君は私の事を下に見て馬鹿にしていましたが(気付いていないと思いましたか)、私はこれでもそれなりに矜持のある人間(そのあたり君は、私の感受性の低さと頭の良し悪し、矜持の有無とを一緒の問題にして私を見下していましたね)なのでレッテル張り、つまり、どういう生まれとか、体形とか、そういう外面的条件だけで人を決めつけたくないと思っているのですが、三つ続けて嫌いな相手がデブになると流石に私も限界です。確率論的にデブは嫌い、となってしまいます。課長のデブ、同期のデブ、これに加えて取引先のデブが来ました。課長と同期については散々君にも愚痴を聞かせたかと思いますが、これらも相変わらずです。それは今はよくて、目下問題は取引先のデブなのですが、これは二日前の話です。

 午前中のアポが終わったので、昼でも食べるかかと最寄りのサイゼリヤに寄ってあさりのスープパスタを店員さんに注文し、煙草に火を付けたところで横から声がしました。

「あれ?杉山さん?」見ると取引先のデブが横のテーブルに座っていました。デブは私の会社の上得意先の担当者で、今まで四、五回ほど先方の会社で話をしたことがある程度でした。私は前々からこのデブから滲み出る中年男性の性的活力っぽさが少し苦手だったので、うわっまじかやっちゃったな、せっかくの休憩時間なのに、とかそういうことを思いながら手早く煙草の火を消しました(一応取引先なので煙草を吸いながら話をするわけにはいきません)。

「お昼?ってか、へえ、杉山さんって煙草吸うんだ」かすかに残る紫煙の向こうでデブが言いました。「でもわかるかも、杉山さん吸ってそう、クールっていうか美人って感じだし」見た目のきつさから性格もその通りだとみられることには人生を通して慣れているのですが(慣れているだけです)、私の全身を舐めまわすようなべたついた視線が不快でした。デブは見た目40代でシャツがはちきれそうなほど上半身がデブで、インナーシャツを付けていないのか、常にカッターから乳首が浮き出ていて、それが否応にも視界に入ってくるのが生理的に無理でした。

「吸うって、ほんの少しなんですけどね。デブもお昼ですか」私は社交辞令的に振舞いました。「うん、そう。えーでもさあ、会社以外で会うってのもさあ、なんか新鮮だねえ」デブは辛味チキンを食っていました。「え、でもさあ、煙草吸ってて、彼氏とか嫌がらない?嫌がるでしょ?」いきなりなんだよ。「いえ、特には」「あ、特には、ってことは杉山さん、彼氏いるんだ。やっぱりなあ美人だし、羨ましいなあ彼氏さん」うるせえよ、その顔と胸元交互に見てくるのまじで勘弁してくれ、と思いました。「え、何、付き合ってどれくらいになるの?」「いや、はい。まあいいじゃないですか」「えー何、冷たいよ杉山さん。教えてよ。え、どれくらい?頻度。どれくらいしてるの?」私は内心愕然としました。「ちょっと、セクハラですよ」角が立たぬような声色と表情を努めて私は言いました。「出たよセクハラ。あのさ、最近さ、そういうの多いと思わない?」「いや、わかりませんけど」「すぐなんかあるとさ、セクハラセクハラって騒ぎ立てるの、最近の若い子は。俺が若い頃はさ、もうなんでもありよ。飲み会で酔っぱらって若い女の子の前でチンコ出したり胸揉んだりさ。そういうのに比べたら俺のなんて屁みたいなもんでしょ。だいたいさ、杉山さんも気を付けた方がいいよ。まだまだ男社会なんだからさこの世の中、そういう下ネタにも耐性」

「お待たせしました、あさりのスープパスタでございます」

そろそろ限界だな、というタイミングであさりのスープパスタがやってきてくれました。店員さんありがとう。私は「あ、すいません、次のアポあって、急いでるんで」と言って、あさりのスープパスタを勢いよく、ずずっは、ずずっはと食べました。屈辱的でした。デブは「そう」と言ったきりそれ以上は話しかけてきませんでした。

 結局はよくある話なのかもしれません。よくいるセクハラ中年男性に嫌がらせを受けたよくいるOL、ということだけなのかもしれません。けれど、この事実は私を極めて不愉快にしました。

 何がそんなに不愉快だったんだろう?私なりに二日考えて、出た結論があります。

 ひとつめは、純粋に性的な言動を乳首の浮き出たデブ中年男性に性的なことを言われて嫌悪感を覚えたということ。

 ふたつめは、デブの言葉によって私という存在が勝手に彼の中で定義づけ、象徴化されたことに対する不快感があったということです。

 私は、このふたつめが特に重要だと思っています。思い返せば、私は慣れているだけで、他人の言葉に決めつけられることが多い人生だったように思うのです。見た目がきつそうだから、地毛が茶髪だからヤンキーなんでしょとか、いや逆に本当は軟弱なんじゃないのとか、何あんた本ばっかり読んでて偉そうにして私達を見下してるんでしょとか。

 お前らに何がわかる?人のことを、人の心の中を想像する力もない人間が、一方的に私を言葉で定義する。決めつける。象徴化される。勝手に納得される。これは、私にとって耐えられないことなのだと、この二日で気付きました。

 宮本君。嫌なことばかり思い出します。何年前でしょうか。君のアパートで「ライフ・イズ・ビューティフル」を見た時のことです。君はDVDを取り出しながら「マイフェイバリットなんだ」と幸せそうに私に言っていて、私も、ああそうなんだ、宮本君がそんなに気に入ってる映画なんだったら見てみようかな、と思っていました。映画が始まり、古ぼけた映像と一緒に「ナチス占領下の悲惨な状況の中でも希望と明るさを失わず、たくましく生きる人々の美しい姿」(宮本君談)が描かれていきました。映画終盤、今にも銃殺されんとする父親が子どもに向かっておどけた姿をみせるのを見て、宮本君は泣いていました。私はその横顔を見ていました。映画が終わり、宮本君は涙をぬぐいながら「生きてる。生きてるって感じ」と言いました。そして「ねえ、どうだった?」と私に訊いてきました。私は「よかった、よかったよ、感動した」と答えました。

 今だから言いますけど、私、あれ、全然わかりませんでした。

 だってあれ、子どもにはゲームってことにして収容所での苦境を乗り切っていこうとしますけど、収容所の同室の方たちは無理やりあの親子に付き合わされて迷惑じゃないですか?もし私があそこにいたらキレてると思います。うっせーガキがよー!迷惑かけてんじゃねーよ!ってキレてると思います。そこはもちろん、人間の善性を信じるというテーマのもと、同室の皆さんも奇跡的に全員善人であったということなのかもしれないのですが、私にはお気楽なご都合主義に映りました。そもそも人間の善性など信じられるものでしょうか?私は信じられません。象徴化。決めつけ。世の中はデブばかりです。そもそも私が善人じゃありません。だから、「ライフ・イズ・ビューティフル」という言葉を信じることができる宮本君はきっと善人で、人の善性を信じられて、私は、そんな宮本君のことがうらやましかったのをすごく覚えています。だから、単純に言って私は宮本君のことが羨ましかったのです。純粋な創作物に涙して、人間の善性を信じることが出来、人の幸せを願える宮本君が羨ましかったです。

 でも宮本君。これ書いてて私思い出しました。このメールの最初に書いた「人生は他者だ」ってあれ、映画の中の台詞ですよね。この前なんとなく借りた「永い言い訳」って映画の中で本木雅弘が言ってました。「人生は他者だ」って。

 借り物の言葉。借り物の信念。借り物の告白。借り物のキス。借り物のセックス。

 「人の言葉で語って何が悪い」という問題はここでは扱わないでおきましょう。一番の問題は、宮本君と私、その関係性、あの関係性の中で借り物が大半を占めていたということなのですから。

 宮本君。本当の言葉でなければ届かないと私は思っています。ここでいう「本当」とは、その人自身から出た言葉ということです。本当の言葉。本当の信念。つまり私は今、私自身の言葉で、本当の言葉でこの文章を綴っているのです。

 けれど、この文章がきみに届くことはありません。

 宮本君。君の連絡先はスマホから消去してしまいました。写真もすべて消しました。私、そういうの嫌なんです。だから消しました。君の痕跡は、私のスマホに跡形もありません。だから私はこの文章を書いていて、宮本君に宛てて書いていて、でも誰に宛てるでもなく書いているのです。本当は君に宛てたメールなのですけれど。

 宮本君。届かない言葉や思いはどこにいくのでしょう。借り物の言葉、消された連絡先、そういったものの行きつく先はいったいどこにあるのでしょう。

 宮本君。君の言葉は借り物ばかりでした。君のおすすめしてくれる映画も、本も、音楽も、誰かが作った借り物ばかりでした。誰かが作ったものばかり、誰かが言った言葉ばかり、私に伝えてきましたね。

 宮本君。今、どこで何をしていますか。

短編「ライティング」

 LとRの発音の違いすら分からないまま高校生になってしまった。

 例えば「write」と「light」、私にとってはどちらもただ「ライト」なんだけれど、ネイティブのスティーブ先生に言わせればこれはどうも違うらしく、無理やり日本語カタカナ表記に押し込めるなら「ゥライット」と「ライッ」みたいな感じになるらしい。いや判らん。どうしても授業だけでは判らなかったので、スティーブ先生に職員室まで教えを乞いに行ってみたけれど、そこで言われたのは舌を巻いてとか区切るようにとかそんなことで、いや判らんがな、という気持ちは増す一方だった。舌がどうのこうのって言うのは、私が外国人に「そげなこと言うても」という発話のイントネーションを尋ねられて「そげ↑なこと↓言う↑ても↓」とかいちいち教えてる、みたいな感じだ。単語自体の細かい詰めにはなっても、一般的かつ普遍的で自由自在な知識にはならない。

 質問ついでにしてくれた身の上話によれば、スティーブ先生はアメリカ西部で生まれ育ち、小さな頃から主にアニメ等日本のポップカルチャーに触れて育ってきたという。日本に強く興味を持ち、翻訳なしでカルチャーを楽しむために中学の頃からほぼ独学で研鑽を重ねてきた。18歳で単身留学、関西大学に入学し、在学中に教員免許を取って試験に通りいま私の通う高校で英語を教えている。「それで僕は関西弁もしゃべれるようになってるねん」「せやから上原さんもきっと頑張れば大丈夫やと思うで」とスティーブ先生は励ましてくれるが、正直、関西弁ネイティブたる私の耳には、伝え聞くところの「合コンでエセ関西弁を使う男」という感じにしか聞こえず、いやそれでも充分すごいのだろうとは思うのだけれど、いわゆる「本もの」ではない。

 私が思うに、人にははじめから出来ることと出来ないことがあるのだ。それは生まれ育った環境であったり才能であったり今まで吸収してきた知識であったりに由来したりする。当たり前かもしれない。当たり前かもしれないけれど、そんなことが私をどうしようもなくさせる。

「ほんなら上原さん、問5の英文訳してなあ」

スティーブ先生が黒板から振り返りもせず、関西弁で私をあてる。思考が引き戻される。無感動に英文を書き写していた私のシャープペンシルの芯が、ノートの上でかすかな音を立てて折れる。

 

 私は、はじめからものが書けない。ここ一週間強く、強くそんなことを思う。

 文化祭でのクラスの出し物を何にするか、HRで多数決を取っていた時のことだった。私はと言うと、例に漏れず頭の中でぐるぐるぐるぐる考え事をしてしまっていて、話を1割も聞いてなかった。窓際後ろから三番目の席で私が何を考えていたか。とにかく文芸部の部誌に載せるための短編、そのアイデアが思いつかない、ということだ。私がこの高校に入学し文芸部に入部してから早五ヶ月が過ぎようとしているのに、いまだに私は一本もものを書けていない。そもそも文芸部にはほとんど顔を出していなくて、せめて何か成果として短編をこしらえたいと思うのだけれど、アイデアすら思い浮かばない。担任の竹内先生が「そしたら多数決で劇やる、これでええな」と言う声を耳の端でとらえる。ふうん劇か。ってか多数決もう取ったのか。手挙げてなかったけどまあいいや。劇。それより短編。アイデア。「劇は劇として問題は演目やけども」書けない。これは何かの欠陥では?この前ちょっと部室に寄った時、5組の水元さんめちゃくちゃ書いててあれはなんだ、私との差はなんだと思った。「なんかアイデアある人おるかあ」私だって一応本は読んでるはずなのに。夏目谷崎太宰。「はい、オリジナルのがいいと思います!」「オリジナルなあ、誰が書くんや、佐伯、お前か?」太宰。私の大好きな『斜陽』。姉さん。僕は、貴族です。あー、そこもめっちゃいいけどあの出だしのくだりが忘れられない。スープ飲んでるだけであんだけ雰囲気「上原さんがいいと思います!」出るもんかね。

「上原さん、文芸部やったやんね!」

「……えっ?」

えっなに。

 なぜ今、この場で私の名前が?

 声のした方を見やると、クラスで一番かわいいと名の通る佐伯さんが、机から立ち上がり、大きくきらきらとした目でこちらを見つめている。さっと血の気が引く。

「何、の話?」

慌てて周りを見ると、やばい。隅っこでもなく真ん中でもない、中途半端な位置の私に、クラスメイトの視線が集中している。

「せやから、オリジナルの脚本!書いてみてもらいたいねん!」

「オリジナル」

なに。なに。脚本を書けと、私に?短編ひとつも書き上げられない私に?オリジナルを?と、いうかそもそも、佐伯さんは何故私が文芸部に入ってるって知ってるの。ほぼ話したこともないのに。クラスで一番かわいい子はクラス全員の所属部活すら把握し切っているのか。

「え……それは……む、」

「私もいいと思う。上原さん、休み時間も本読んでるし、すごい書けそう」

佐伯さんのご友人、榎本さんからの追い打ちがかかる。なんだお前らグルか。やめて。そうだ。助けて先生。こんなアポなしもアポなしの激突依頼、私は受けられません。私は縋るように竹内先生を見る。ばっちり目が合う。逸らされる。先生は言う。

「まあ……上原にはいきなりの話かもしれんけど、ここだけの話な、オリジナルの方がな、生徒の自主性を重んじたっちゅうことで点数が加算されたりするんやわ」

畜生か?

「そうなんですか!?せやったら上原さん!ここはひとつ、お願いっ!」

佐伯さんが胸の前で手を合わせてこちらを見つめてくる。そのくりくりした瞳に濁りは無い。ように見える。私は視線を動かして周りを見る。佐伯さんに援護射撃をした榎本さんと一瞬目が合って離れる。クラスの中で助け舟を出してくれそうな人……駄目だ、思い当たらない。汗が止まらない。心の中に太宰『斜陽』の名文が浮かぶ。

 姉さん。僕は、貴族です。

「あ……ふ……………………………………はい」

自分で自分をミンチにしてやりたいと思ったのは、これで何度目だろう。

 

  書きますと言っておきながら実際には書かないのは要するに儲けられますよと話を持ち掛けておきながら実際には儲けさせるどころか損をさせる詐欺師と同じであり、私は当然貴族などではなく詐欺師なのだ。何を思いあがっていたんだろう。

 気落ちしながら私は教室を出て文芸部の部室へ向かう。スティーブ先生の授業が六限だったので、LとRの発音から連想した思考で自分に対する不能感が極限まで膨れ上がり、私という醜い外皮をパンパンにしていた。あれから一週間、書けないとなるたびに突然の公開脚本依頼をしてきた佐伯さんを頭の中で殺すというのが私のルーティーンと化していて、けれど佐伯さんも純粋に私を頼ってお願いしてきてくれていたはずで、自分が嫌になってぐるぐるぐるぐる頭の中で言葉とイメージだけが形を結ばず渦巻くのだった。

 あの日、HRが終わってすぐ佐伯さんがこちらに駆け寄ってきた。「ほんまごめん!突然お願いしちゃって……でも、上原さんやったらなんかすごいの書けそうやと思って」と彼女に言われてしまい、呆然とした私は「ひゅ……」と死にかけのあざらしみたいな声しか出なかった。何もすごくありません私なんかは。私は教室の隅っこでも真ん中でもない中途半端なところで黙って本を読んでいるだけの女です。すごいのは読んでるこの本です。いや待て。そうか、そもそも教室で本なんか読んでるのが駄目だったのだ。もちろん私は、本を読むのが大好きだ。けれども、教室で本を読んでるのは少数派で、その少数派たる自分に優越感を持ちたい、少数派な私を誇示したいというしょうもない欲求が私の中にはあったのではないか。私は本を読んでいます。教室で本を読んじゃってます。わかります?これ、太宰。わかるかなあ。わかんねえだろうなあ。汚い汚い汚い。腐った優越感、見下し、自己顕示欲に呑まれていた部分が、私にあったのだ。そういうウンコみたいな思考や行動が、なんのリスクも伴わず「姉さん。僕は、貴族です」みたいな自虐と優越がない交ぜになったよう甘い蜜だけを与えてくれると信じていた。馬鹿で嫌気がさす。これは報いだ。「すごいの書けそうやと思って」と言ってくれた佐伯さんの本意が純粋な期待なのか皮肉なのか、推し量るすべは私にはないけれど、少なくとも現実現状の私を一番知っている私自身には皮肉に響く。そんだけ得意顔で教室で本読んでるんやったら、もちろん脚本くらい書けるねんやんなあ先生?

 陰鬱とした気持ちで文芸部部室のドアを開くと、先客がいた。5組の水元さんだ。部室左側にはウィンドウズXPが入ったデスクトップパソコンが三台並んでいて、その一番奥で水元さんが、パチパチパチとキーボードを鳴らしている。水元さんはこちらに気が付くと手を止めて顔を向け、黒眼鏡の奥の丸い目を細めて「あ、お疲れ」と言った。

「お、お疲れ」と返す私の内心は薄い氷が張ったようだった。水元さんとは何度か部室で顔を合わせたことはあるけれども、きちんと喋ったことはない。

「珍しいやん上原さん、書きにきたん?」

「……うん」

「部誌に載せるやつ?」言いながら、水元さんはひと休憩と言わんばかりに伸びをして頭を掻く。黒髪ショートのくせっ毛がふわりと揺れた。

「いや、部誌のやないんやけど」

「え?」でなければ何?と促すように水元さんの身体がこちらに向く。

「いや……実は、脚本、文化祭で今度クラス劇やるねんけど、その脚本を頼まれちゃって」言ってしまった、と思う。

「へー!すごいやん上原さん。あたしなんか部誌のやつ書き上げるので手一杯やわ」

「いや、せやから部誌の方は、なんかもう、諦めた方がええかなって」

「え、なんで?」

水元さんみたいにすらすら書けないからだよ、と心の中の私が暴れる。

「私、筆がほんま遅くて……脚本書くんやったら、そっちの方優先せなあかんかなって」言いながら私は、水元さんとひとつ離れた一番手前のパソコンの電源をつけ、ワードを立ち上げる。

「んー、そっかー」

まあそれやったら頑張って、と水元さんは私に言い、会話は途切れた。しばらく間を置いてから、水元さんはまたパチパチと音をたてはじめる。物語を紡ぐ音だ。私は椅子に座って、彼女を横目に見てから、真っ白な画面と対峙した。ここから、私は物語を作り上げていかなければならない。

 書く。書かなければ。私は想像する。脚本。舞台上に一人、人が立っていて、それは男なのか女なのかわからない。暗い舞台の上、その人は煌々とスポットライトに照らされていて、何かを必死に語っている。何を語っているのかは判らない。けれども何か大切なことだ。語られなければならないことを、この人は語っている。何か大切なこと。語りたいこと。私が語りたいこと。何だろう?私は何を語りたいんだろう?

 また私の頭の中で、あの文が浮かび上がる。姉さん。僕は、貴族です。

 思いつかない。何もない。六〇秒を何度繰り返したのか。私の前に広がっているのは、どこまでも白い曠野だった。

「あー!煮詰まったーーー!!」

突如大きな声がして、私は「ひっ」と声を出す。見ると、水元さんがパソコンに向かって叫んでいた。

「あ、ごめん」驚いた反動で半分手を挙げたみたいな格好になっている私に気付き、彼女がにへらと謝る。「煮詰まっちゃって」駄目や、と照れたように笑った。

「上原さんは?」「あ、ちょっと」水元さんが立ち上がり、こちらの画面を見ようとする。手で隠そうとするが遅かった。そこにはばっちり、私の無能の証明としての白が刻印されている。

「……煮詰まってるん」

「…………うん」

パン、と水元さんは手を叩く。

「ほしたらさ、上原さん」「えっ?」「もう帰らへん?こういう時は気分転換やって。あたしアイス食べたい、アイス」

水元さんってこういう子だったんだ。なんか、意外だ。

 

 帰り道、空は奥の方から赤く暮れ始めていて、部室で過ごした無為な時間もそこそこだったんだと思った。アイスを食べたいと水元さんが言ったので、私達は途中にあるシャトレーゼに寄ることにした。あまり話したことのない人とこうして帰り道を共にするというのもなんだか不思議なもので、先月の定期テストの結果や学年で目立った子の話など無難な話題で渡っていく通学路は、いつもと違ってふわふわとした歩き心地がした。

 水元さんは今日一日でどれくらい物語を進めたんだろう?私は進める以前に書くべきものも照らすべきものも思いつかず、ただ空っぽだ。書くべきもの、書かずにはいられないものがある水元さんが羨ましいと、素直にそう思った。

「劇かあ」水元さんは、アイスの入ったクーラーボックスを物色しながらつぶやく。「脚本とかあたし書いたことないから全然わからへんねんけど」

「私だって書いたことないよ、劇とかアニーしか観たことないし」私はバニラ味のソフトクリームを手に取ってレジに運び、120円を支払って店の外へ出た。水元さんも私の後からやってきて、二人してシャトレーゼの入り口前に並んで突っ立つ。彼女はアイスボックスを買ったようだった。気付けばあたりは赤に染められていて、光の粒が散らばったみたいな薄い夕陽が私達を照らしていた。

「上原さんさあ」「うん?」「……親のことさ、殺したいとか思ったことある?」ぎょっとして、口をつけようとしていたソフトクリームから顔を離す。何を言い出すんだろう。

「親?なんで。ないよ」「そっかあ……」水元さんはアイスボックスを開け、ばりぼりと氷をかみ砕いた。「いやね、今書いてるのが連作短編なんだけど」「連作短編」唖然としておうむ返しする。私は短編ひとつ、脚本ひとつ書きあがらないというのに。「親を殺したいって思ってるこの町の子どもたちが各話の主人公で」「うん」「なんかいまいちリアリティが無いっていうか、凄みが足りないっていうか。やっぱりあたしの経験や想像力だけじゃどうにもならんってのがあってさ」

親を殺したいと思っている子どもたち。そんな主題や発想はどこから生まれてくるのだろう?水元さんの中にそういう物語があるということは、きっと水元さんはそれを書かずにはいられないということであって、それは彼女の内面になにか大きく起因しているものがあって、それが彼女を物語へと突き動かしているのだろうと私は推察する。あくまで推察するだけであって「お家大変なの?」などとは口がひんまがっても言えはしないし言うべきでもない。

「どうすればもっと本当のことが書けるんやろうって思うねんな。本ものっていうか」水元さんはまたアイスをがりがりとやる。「あたしだけやったらそれは、無理やから。上原さんにもしそういう経験があればなあ……みたいな。ごめん変なこと訊いて」何言ってもうてんねんはずかしーと、水元さんは眼鏡を直しながら笑う。

本当のこと。本もの。

「……あの、さ、水元さん」「ん?」「スティーブ先生っておるやん」

自然と言葉が口から出ていた。私はなんの話をしようとしているんだろう。

「スティーブ先生関西弁使うやん。アメリカ人やのにすごいうまいなあって思うねんけど、でもなんかやっぱ私らからしたらちょっとおかしいところもあるやん、スティーブ先生の関西弁。もちろんさ、私は英語全然出来へんで全然発音とかも判らへんから、アメリカで言うところの方言みたいなん使えとか言われても、そんなん夢のまた夢の話なんやけど。だから私、スティーブ先生ってすごいなって思うねん。好きで、頑張って、努力して日本語勉強して。すごいって思うんねんけど、やっぱりでも、それは本ものちゃうんやなって。私らみたいにどんだけ頑張っても、本ものにはなれないってことがあるんちゃうんかなって」

「んー」まとまりのない私の言葉に、水元さんは頭をかいて笑った。「それ励ましてくれてる?」

「え、いや……ごめん」

「あたしはそれでもええと思うよ、スティーブ先生」「え?」

「ほんまに日本好きやったら、関西弁喋れるとこまでいけるんやって思わせてくれるやん。それでいいと思う。ってか、本ものってあたしが言ったことやけどさ、結局、自分以外の本ものにはなれないんちゃうかなって。だってそうちゃう?あたしはあたしやし、上原さんは上原さんでしかない。アメリカ人にもなれへんし、もっと言ったらスピルバーグにも萩尾望都にも太宰治にもなれへん。でもなにかが好きで、なにか伝えたいことがあったら、そこにどれだけ近づけるかっていうのが大切なんちゃうんかなって」

夕暮れは気付けば濃さを増して、私たちを正面から強く照らしていた。

ふと、手に冷たさを感じた。見ると、ソフトクリームがどろっと溶けて私の手の甲に白く伝っているのだった。慌ててそれをなめとると、舌先に甘味が広がった。

「ちょっ、上原さんめっちゃ溶けてるやん!」水元さんが私の手元に気付き、声を上げる。「あー……やってもうた」「はよ食べな、日暮れてるし」

私は、スティーブ先生について水元さんに返す言葉はなかった。なんと言うべきかも判らなかった。ただ何か心の奥のひだに、少しずつ彼女の言葉がひっかかっていくような感じがした。急いでソフトクリームを食べると、口の中が冷たさでひりひりする。少し肌寒くなったあたりは赤から紺に変わり始めていて、不思議と風はなかった。

 

 家に帰り、私はノートパソコンの前でワードを開いている。相も変わらず、真っ白だ。

 今日水元さんと話したことを思い出していた。今までそれほど話したこともない水元さんとの話を。期末テストの点数。学年で目立っている子。親を殺したいと思ったことはあるか。スティーブ先生の関西弁。本もの。シャトレーゼで私たちを照らしていた赤い光。

 佐伯さんやクラスメイト達を満足させられるような脚本、それを書くよりも、今私に必要なのは、私自身が要請する、私自身が必要とする物語のはずだ。私は私以外になれないならば、何か大切な、遠くにある本ものにどれだけ近付くのか、それが重要なんじゃないかと水元さんは言った。きっと彼女自身も何か複雑なものを抱え込みながら、そんなことを考えている。

 私は私以外になれない。LとRの発音の差も判らない、どうしようもない私として、私は何を語るべきなんだろう?

 私は本を読むこと以外好きなものも特にない、物を書いたこともないただのつまらない人間だ。それでも、憧れはある。いつか、自分の書いたもので誰かの心を動かしてみたいと思っている。それにはまず、私の心を動かすような物語を書くことだ。私が大好きだと思えるようなものを書くことだ。本ものでも、本ものじゃなくてもいい。私にとって心が動かされるもの。私でしかない私が、何かの本ものに近付くために。

 私はキーボードに手を置き、文字を打つ。

 『贋作・斜陽』と、白い曠野に文字が浮かび上がった。

物語は溶ける『魔女の子供はやってこない』

物語は溶ける。

僕が受容する時、それは文字の連なりであったりシーンの繋がりであったり音のかたまりであったりする。ひとつの連なりとして、物語は僕の中に入ってくる。

でも、時が経つと、物語はするするとほどけていく。断片になる。

 

金曜日の朝、人事に呼び出されて会議室に入った。

「今の君には給料を払うだけの価値がないと思ってるんだ」

人事課長はそう切り出した。

「当社としては9時5時で働いてもらうのが原則というか大前提になってるんだけど、君は病気のこともあって離席が多いよね。トイレ、2時間に1回くらい?それじゃあ君は9時5時で働けてないってことになる。我々としては9時5時に昼休み1時間で働いてもらった対価として給料を払ってるわけだから、君と他の職員の給料が同水準っていうのはおかしい。給料を払っている意味がない。それともう一つ、君仕事全然出来てないよね。前の部署でもC評価で、今の部署でも上司の報告によると仕事がままなってない様子じゃないか。君の先輩は君の指導を本当によくやってくれている。諦めずに頑張ってくれていると思う。でも君は全く成長する様子が見られない。困るんだよ。君は総合職だし、我々としては総合職には将来的に経営者になってもらいたいと思っていて、なのに君は成長が見込めない。それなら成長が見込めない君に給料払ってる意味って何?無いよね。君が将来このままずっと昇給も昇格もなくていいってのならそれならそれで仕方がないけれど、まあ当然給与水準は他の総合職より下げざるを得ないだろうし。ともかくさ、君は今、9時5時でも働けない、仕事も満足にこなせない、何にも出来てないってこと。それなら我々としては給料払ってる意味がないってことになるよね」

準備してきたであろう言葉を、彼は一気に僕に浴びせた。

「それは、クビにするってことですか?」

僕は訊いた。

「いや、クビにはしないけどね。君がこのままでいいのかって話をしてるのこっちは。9時5時で働けるって言うならさ、お医者さんに行って診断書取ってきてよ。それが無理ならいっそ長期間休んで治すか、他の道探すとかさ、あるんじゃない」

事実、僕には治らない持病とうつ状態という心の病とがあり、2時間に1度は離席しなければならない。事実、僕は今の部署での仕事があまりうまくいっていない。言いたいことはたくさんあるはずだった。けれど何も言うことが出来ない。「2時間に1回の離席が駄目って、煙草吸ってる人はどうなるんですか」という言葉も声に出せなかった。僕の口からは問いが発せられた。

「それは、病気治さなきゃ辞めろってことですか?」

彼は「いやそうじゃなくて」と笑い、黙った。

 

席に戻ると、仕事でまたミスをやらかしていたことが発覚した。たっぷりと怒られた後、上司は「これを機にいらない書類整理しようよ、手伝うし」と言った。上司は僕のボックスに溜まった書類からバサバサと紙を分別し、当てつけのように不要なものを投げ捨て、「いらない、いらない」というような意味の言葉と僕の名前とをかけたジョークを言った。「それは、暗に僕のことを不要だと言ってるんですか?」僕は訊いた。

「そこらへんは勝手にしてくれよ」

 

席についた僕は、先週読んだ矢部嵩の『魔女の子供はやってこない』のことを思い出していた。

小学三年生の主人公、夏子が偶然拾った落とし物のステッキから魔女のぬりえちゃんと友達になり、「人の願いを叶える」魔女修行に巻き込まれていく物語だ。

と書くとなんだかファンシーポップな魔法少女物語をイメージしがちだが、実際のストーリーラインは人が死にまくり血と肉が飛び散るような、グロとナンセンスを凝縮したものになっている。それでもこれは、希望のある物語なのだ。

本作のテーマは、魔女のぬりえちゃんの家に入るための合言葉「地獄は来ない」という一言に凝縮されている、と僕は感じている。

自分が自分のことをどうしても認められないとき、どうしても許せないとき、自分はどうしたって善い人間にはなれないと思うとき、どうすればいいのか。そのやるせない問いに対する優しい答えを、『魔女の子供はやってこない』は提示している。

本作に登場するのは、大江健三郎が『万延元年のフットボール』で書いていたところの「内部の地獄」を抱えている人ばかりだ。治らない病気を抱えている男にその世話をしている女、家庭という泥沼に大事なものを全て奪われた主婦、過去の自分の行いを許すことが出来ない人間。彼らがぬりえちゃんという「魔法」に遭遇したとき、何を願うのか?何を叶えるのか?「内部の地獄」を抱えた人間には、諦念がある。自分はこの先どうしたってよくならない、自分はどうしたってここからは逃げられない、自分はどうしたってこの先許されることなんてない。その諦念に対する「魔法」=「救い」が「地獄は来ない」という言葉に集約されていると感じるのだ。

連作短編形式で綴られる本作の最終話、その救いがはっきりと提示される一節一節が僕は大好きだ。通勤電車の中や寝る前、会社のロッカーでも、噛み締めるようにしてその文章を繰り返し繰り返し読んでいる。そこには物語があり、救いがある。泣いたりもする。お前は存在する意味がないと言われ、不要だと言われ、治る病も治らない病も抱えた僕に救いは響く。

でも、物語は溶ける。忘れていく。ひとかたまりとして受容したはずの物語は、記憶の中で反芻するうち繋がりが細くなっていき、端々がちぎれ、少しずつバラバラになって、物語が文章に、文章が言葉や音に分解されていく。今も僕の中で『魔女の子供はやってこない』は、少しずつ音になっていっている。

そうして残るのは、物語が与えてくれた感情だ。そして運が良ければ、その感情を与えてくれた文章の一節も。

僕は『魔女の子供はやってこない』がくれた感情を、その感情を引き起こした文章たちを、出来る限り頭の中でつなぎとめておきたいと思う。

そのために読む。繰り返し読む。僕にとって救いになるからだ。

だからこれから先も僕は本を読むことをきっとやめないだろうし、やめたくない。

「消えないし。忘れたって」と主人公、夏子は言う。そのとおりだ。

僕には物語が必要で、その物語はやがて溶けてしまうけれど、物語がもたらした感情や言葉はなくならずに残ると信じる。

僕はこの「内部の地獄」を抱えながら、それでも「地獄は来ない」という言葉をきっと覚えていたいと思っているのだ。

 


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楽しいこと

昨日の夜、11時まで友人と喫茶店で話して別れた。

帰りの各駅停車の電車の中、充電の切れたスマートフォンを両手で握り締めながら、どこにも繋がっていない自分自身を感じていた。

 

ここ二、三週間、本が、特に小説が読めなくなっていて困っている。

僕にとって一番の趣味は読書で、休日に近所の喫茶店に出向いてコーヒー片手に物語の世界に浸るのが大好きだ。

本を開けばそこには物語があって、つまり他人の考えている世界がある。本を読まなければ、物語を摂取しなければ自分の世界は自分の思考だけになってしまうし、自分の思考はとてもつらいので、本を読むことは僕にとって、おおげさかもしれないけれど趣味以上の救いでもある。

けれど、最近その本が読めない。

本を読むためには、文字を羅列を自分の頭の中でいったん整理してそこからイメージを浮かび上がらせていくことが必要になるけれども、そのパワーが衰退していると強く感じるのだ。

読書が楽しい、と少し前のように感じることができない。

 

仕事がとてもつらいので、仕事がないときは出来るだけ楽しいことをしていたい。

仕事をしていていて、何かミスをしたりいやな気分になるたびに、自分の心の中にある不吉なギアがガッチャン、ガッチャンと音をたてて上がっていくのがわかる。頭の中に言葉が渦巻く。叫び出しそうになる。最近ではそれが限界にきていて、オフィスで必死に発狂をこらえながらキーボードを打っているんだけれど、それも無理になると、会社を休んでしまう。

だから会社を休んだ日や休日はできるだけ楽しいことをしようと、本を広げてみたり友達と会って話してみたりする。言わばそれは上がってしまったギアを必死に下げようと試みる行為なのだ。

でも、周りはそれを理解してくれているわけではない。

お前なあ、会社休んどるくせに友達とは会えるんか。ええご身分やなあ。そういう都合のいい子どもやったもんなお前は昔から。休む休む言うてな。お前は失敗作や。育て方があかんかった。

うつ病患者はうつ病らしく、布団にくるまって唸ってればいいんだよ」という理屈と何が違うのだろう。

 

だから、僕は平常に生きるために、楽しいことを失いたくないと思う。本を読むこと、音楽を聴くこと、映画を観ること、その他もろもろ。

でも、近頃本を読むことができない。文字が頭に入ってこないし、ページがめくれてしまわないよう本を抑えている手に力が入らない。これは僕にとって喫緊の問題だ。

僕から本を取り上げてしまうつもりなんだろうか?

とても怖い。

頼むから、僕から楽しいことを奪わないでください。お願いします。

これまでのこと

とにかく「自分には才能がない」と思い続ける日々だ。

 

僕は大阪で働き始めて二年目で、もうすぐ三年目になる。

もともと根っからの文系で中高大と文化系の部活・サークルにしか所属してこなかった人間だけれども、体育会系が多いと言われる金融関係の会社で働いている。

一年目の時、会社の野球部に強制入部させられセカンドに配置となり、「おい、セカンド、球、体で止めろォ!」と怒鳴られ「ハァイ!!!!」と球を取りこぼした時、僕の意識は広がり、果てしない宇宙との繋がりを感じた。一年で野球部は辞めた。

僕には野球の才能がないのだ。

 

最初に配属された部署ではとにかく貯金を集めまくるという仕事をしていて、僕にもノルマが課せられていた。必死こいて一年間集めた結果、これは少し自慢させてほしいんだけれども、貯金の獲得件数が社内でトップになった。

嬉しかった。

けれども、その部署での上司と僕の折り合いが悪かったのが問題だった。上司は何かにつけて僕を彼の机の横に立たせて説教をした。毎日。あんまりにも毎日やるもんだから、社内でもあっという間に噂になってしまったほどだ。

上司は、僕の髪型によく文句をつけていた。僕は元来猫っ毛で髪が細いので、クセが付きやすい。そこに目をつけてしまわれたのだ。

あなたワックスとか付けてるの。いえ、付けてません。何で付けないの?何度かチャレンジしたんですけど、ワックスが効かないんです全然。それでも整えて来るのが社会人ってもんだろ、なあ?はい、すいません。すいませんじゃなくてさ、お前、整えろって言ってんの。はい、すいません。

そこで僕はこう考えた。今の髪質でワックスが効かないのならば、いっそ髪質を変えてしまえば。そうすれば身だしなみもより制御しやすくなるし、怒られなくても済むかもしれない。

僕はパーマをかけた。

ワックスはよく効くようになった。十数分をかけて髪型をセッティングし、会社に出勤した。

僕を見た上司は言った。「喧嘩売ってんの?」

社内トップの成績を取った、その期の僕の評価は「C」だった。

人事考課にはこう書かれている。「身だしなみについて、髪型のことを指摘してきたにも関わらず『寝ぐせ風パーマ』をかけるなどした行動は論外である」

上司はとにかく僕の行動を悪意的に解釈する人で、すべて悪い方向に、悪い方向にとられてしまう。僕のプラスの部分だった貯金実績をマイナスにするほどの低評価をその他の部分で付けられた。

僕は何を求められていたんだろう?

「マイペースは社会人の敵である」と上司は僕の考課に書いていた。

「社会人」ってなんだ?

 

部署は異動になった。でも、苦しい。

とにかく働くことが苦しい。

大人になれ、社会人になれ、と言われることが苦しくて苦しくてたまらない。

「才能がない」と声がする。「お前には社会人の才能がないんだ」

確かに、僕には社会人としての才能がないのかもしれない。仕事ではミスばかりだし、会社にはなじみ切れないし、仕事よりも絶対趣味の方が大事だし。

そういえば飲み会で趣味の話をしたところ、件の上司から「そんなことしてるやつで、仕事がうまくいってる奴見たことねえんだよ。やめろ、やめなきゃ今すぐここから追い出すぞ」と言われたこともあった。

才能がないのだ。それでもここで、この才能がないとわかっているフィールドで、努力して、努力して、あと四十年働き続けなければならないのか。

 

それでも少しの希望はある。

それは趣味である読書だったり、アニメだったり、映画だったり、音楽だったりする。

僕が大好きな映画『聲の形』のワンシーン。主人公の心象描写で、真っ暗な画面中央にぼんやりとしたごく小さな灯りがあたたかくともっていて、その中に人のような影がふたつ並んでいるように見える、という抽象的なカットがある。

あの灯り、あの灯りが僕の心の中にもともっているうちは、生きることをあきらめてはいけない、と今は思っている。

わずかでもいいのだ。この暮らしの中で、あの人影がふたつ並んでいるように見える小さな光を、僕の心の中から消してしまっては、見失ってしまってはいけないと思う。

 

明日からまた仕事がはじまる。

僕には才能がない。

けれども、あの心の中の小さな灯りは、まだある、と思えている。

だから、なんとかやってみるしかない、と思っているのだ。