短編「ライティング」

 LとRの発音の違いすら分からないまま高校生になってしまった。

 例えば「write」と「light」、私にとってはどちらもただ「ライト」なんだけれど、ネイティブのスティーブ先生に言わせればこれはどうも違うらしく、無理やり日本語カタカナ表記に押し込めるなら「ゥライット」と「ライッ」みたいな感じになるらしい。いや判らん。どうしても授業だけでは判らなかったので、スティーブ先生に職員室まで教えを乞いに行ってみたけれど、そこで言われたのは舌を巻いてとか区切るようにとかそんなことで、いや判らんがな、という気持ちは増す一方だった。舌がどうのこうのって言うのは、私が外国人に「そげなこと言うても」という発話のイントネーションを尋ねられて「そげ↑なこと↓言う↑ても↓」とかいちいち教えてる、みたいな感じだ。単語自体の細かい詰めにはなっても、一般的かつ普遍的で自由自在な知識にはならない。

 質問ついでにしてくれた身の上話によれば、スティーブ先生はアメリカ西部で生まれ育ち、小さな頃から主にアニメ等日本のポップカルチャーに触れて育ってきたという。日本に強く興味を持ち、翻訳なしでカルチャーを楽しむために中学の頃からほぼ独学で研鑽を重ねてきた。18歳で単身留学、関西大学に入学し、在学中に教員免許を取って試験に通りいま私の通う高校で英語を教えている。「それで僕は関西弁もしゃべれるようになってるねん」「せやから上原さんもきっと頑張れば大丈夫やと思うで」とスティーブ先生は励ましてくれるが、正直、関西弁ネイティブたる私の耳には、伝え聞くところの「合コンでエセ関西弁を使う男」という感じにしか聞こえず、いやそれでも充分すごいのだろうとは思うのだけれど、いわゆる「本もの」ではない。

 私が思うに、人にははじめから出来ることと出来ないことがあるのだ。それは生まれ育った環境であったり才能であったり今まで吸収してきた知識であったりに由来したりする。当たり前かもしれない。当たり前かもしれないけれど、そんなことが私をどうしようもなくさせる。

「ほんなら上原さん、問5の英文訳してなあ」

スティーブ先生が黒板から振り返りもせず、関西弁で私をあてる。思考が引き戻される。無感動に英文を書き写していた私のシャープペンシルの芯が、ノートの上でかすかな音を立てて折れる。

 

 私は、はじめからものが書けない。ここ一週間強く、強くそんなことを思う。

 文化祭でのクラスの出し物を何にするか、HRで多数決を取っていた時のことだった。私はと言うと、例に漏れず頭の中でぐるぐるぐるぐる考え事をしてしまっていて、話を1割も聞いてなかった。窓際後ろから三番目の席で私が何を考えていたか。とにかく文芸部の部誌に載せるための短編、そのアイデアが思いつかない、ということだ。私がこの高校に入学し文芸部に入部してから早五ヶ月が過ぎようとしているのに、いまだに私は一本もものを書けていない。そもそも文芸部にはほとんど顔を出していなくて、せめて何か成果として短編をこしらえたいと思うのだけれど、アイデアすら思い浮かばない。担任の竹内先生が「そしたら多数決で劇やる、これでええな」と言う声を耳の端でとらえる。ふうん劇か。ってか多数決もう取ったのか。手挙げてなかったけどまあいいや。劇。それより短編。アイデア。「劇は劇として問題は演目やけども」書けない。これは何かの欠陥では?この前ちょっと部室に寄った時、5組の水元さんめちゃくちゃ書いててあれはなんだ、私との差はなんだと思った。「なんかアイデアある人おるかあ」私だって一応本は読んでるはずなのに。夏目谷崎太宰。「はい、オリジナルのがいいと思います!」「オリジナルなあ、誰が書くんや、佐伯、お前か?」太宰。私の大好きな『斜陽』。姉さん。僕は、貴族です。あー、そこもめっちゃいいけどあの出だしのくだりが忘れられない。スープ飲んでるだけであんだけ雰囲気「上原さんがいいと思います!」出るもんかね。

「上原さん、文芸部やったやんね!」

「……えっ?」

えっなに。

 なぜ今、この場で私の名前が?

 声のした方を見やると、クラスで一番かわいいと名の通る佐伯さんが、机から立ち上がり、大きくきらきらとした目でこちらを見つめている。さっと血の気が引く。

「何、の話?」

慌てて周りを見ると、やばい。隅っこでもなく真ん中でもない、中途半端な位置の私に、クラスメイトの視線が集中している。

「せやから、オリジナルの脚本!書いてみてもらいたいねん!」

「オリジナル」

なに。なに。脚本を書けと、私に?短編ひとつも書き上げられない私に?オリジナルを?と、いうかそもそも、佐伯さんは何故私が文芸部に入ってるって知ってるの。ほぼ話したこともないのに。クラスで一番かわいい子はクラス全員の所属部活すら把握し切っているのか。

「え……それは……む、」

「私もいいと思う。上原さん、休み時間も本読んでるし、すごい書けそう」

佐伯さんのご友人、榎本さんからの追い打ちがかかる。なんだお前らグルか。やめて。そうだ。助けて先生。こんなアポなしもアポなしの激突依頼、私は受けられません。私は縋るように竹内先生を見る。ばっちり目が合う。逸らされる。先生は言う。

「まあ……上原にはいきなりの話かもしれんけど、ここだけの話な、オリジナルの方がな、生徒の自主性を重んじたっちゅうことで点数が加算されたりするんやわ」

畜生か?

「そうなんですか!?せやったら上原さん!ここはひとつ、お願いっ!」

佐伯さんが胸の前で手を合わせてこちらを見つめてくる。そのくりくりした瞳に濁りは無い。ように見える。私は視線を動かして周りを見る。佐伯さんに援護射撃をした榎本さんと一瞬目が合って離れる。クラスの中で助け舟を出してくれそうな人……駄目だ、思い当たらない。汗が止まらない。心の中に太宰『斜陽』の名文が浮かぶ。

 姉さん。僕は、貴族です。

「あ……ふ……………………………………はい」

自分で自分をミンチにしてやりたいと思ったのは、これで何度目だろう。

 

  書きますと言っておきながら実際には書かないのは要するに儲けられますよと話を持ち掛けておきながら実際には儲けさせるどころか損をさせる詐欺師と同じであり、私は当然貴族などではなく詐欺師なのだ。何を思いあがっていたんだろう。

 気落ちしながら私は教室を出て文芸部の部室へ向かう。スティーブ先生の授業が六限だったので、LとRの発音から連想した思考で自分に対する不能感が極限まで膨れ上がり、私という醜い外皮をパンパンにしていた。あれから一週間、書けないとなるたびに突然の公開脚本依頼をしてきた佐伯さんを頭の中で殺すというのが私のルーティーンと化していて、けれど佐伯さんも純粋に私を頼ってお願いしてきてくれていたはずで、自分が嫌になってぐるぐるぐるぐる頭の中で言葉とイメージだけが形を結ばず渦巻くのだった。

 あの日、HRが終わってすぐ佐伯さんがこちらに駆け寄ってきた。「ほんまごめん!突然お願いしちゃって……でも、上原さんやったらなんかすごいの書けそうやと思って」と彼女に言われてしまい、呆然とした私は「ひゅ……」と死にかけのあざらしみたいな声しか出なかった。何もすごくありません私なんかは。私は教室の隅っこでも真ん中でもない中途半端なところで黙って本を読んでいるだけの女です。すごいのは読んでるこの本です。いや待て。そうか、そもそも教室で本なんか読んでるのが駄目だったのだ。もちろん私は、本を読むのが大好きだ。けれども、教室で本を読んでるのは少数派で、その少数派たる自分に優越感を持ちたい、少数派な私を誇示したいというしょうもない欲求が私の中にはあったのではないか。私は本を読んでいます。教室で本を読んじゃってます。わかります?これ、太宰。わかるかなあ。わかんねえだろうなあ。汚い汚い汚い。腐った優越感、見下し、自己顕示欲に呑まれていた部分が、私にあったのだ。そういうウンコみたいな思考や行動が、なんのリスクも伴わず「姉さん。僕は、貴族です」みたいな自虐と優越がない交ぜになったよう甘い蜜だけを与えてくれると信じていた。馬鹿で嫌気がさす。これは報いだ。「すごいの書けそうやと思って」と言ってくれた佐伯さんの本意が純粋な期待なのか皮肉なのか、推し量るすべは私にはないけれど、少なくとも現実現状の私を一番知っている私自身には皮肉に響く。そんだけ得意顔で教室で本読んでるんやったら、もちろん脚本くらい書けるねんやんなあ先生?

 陰鬱とした気持ちで文芸部部室のドアを開くと、先客がいた。5組の水元さんだ。部室左側にはウィンドウズXPが入ったデスクトップパソコンが三台並んでいて、その一番奥で水元さんが、パチパチパチとキーボードを鳴らしている。水元さんはこちらに気が付くと手を止めて顔を向け、黒眼鏡の奥の丸い目を細めて「あ、お疲れ」と言った。

「お、お疲れ」と返す私の内心は薄い氷が張ったようだった。水元さんとは何度か部室で顔を合わせたことはあるけれども、きちんと喋ったことはない。

「珍しいやん上原さん、書きにきたん?」

「……うん」

「部誌に載せるやつ?」言いながら、水元さんはひと休憩と言わんばかりに伸びをして頭を掻く。黒髪ショートのくせっ毛がふわりと揺れた。

「いや、部誌のやないんやけど」

「え?」でなければ何?と促すように水元さんの身体がこちらに向く。

「いや……実は、脚本、文化祭で今度クラス劇やるねんけど、その脚本を頼まれちゃって」言ってしまった、と思う。

「へー!すごいやん上原さん。あたしなんか部誌のやつ書き上げるので手一杯やわ」

「いや、せやから部誌の方は、なんかもう、諦めた方がええかなって」

「え、なんで?」

水元さんみたいにすらすら書けないからだよ、と心の中の私が暴れる。

「私、筆がほんま遅くて……脚本書くんやったら、そっちの方優先せなあかんかなって」言いながら私は、水元さんとひとつ離れた一番手前のパソコンの電源をつけ、ワードを立ち上げる。

「んー、そっかー」

まあそれやったら頑張って、と水元さんは私に言い、会話は途切れた。しばらく間を置いてから、水元さんはまたパチパチと音をたてはじめる。物語を紡ぐ音だ。私は椅子に座って、彼女を横目に見てから、真っ白な画面と対峙した。ここから、私は物語を作り上げていかなければならない。

 書く。書かなければ。私は想像する。脚本。舞台上に一人、人が立っていて、それは男なのか女なのかわからない。暗い舞台の上、その人は煌々とスポットライトに照らされていて、何かを必死に語っている。何を語っているのかは判らない。けれども何か大切なことだ。語られなければならないことを、この人は語っている。何か大切なこと。語りたいこと。私が語りたいこと。何だろう?私は何を語りたいんだろう?

 また私の頭の中で、あの文が浮かび上がる。姉さん。僕は、貴族です。

 思いつかない。何もない。六〇秒を何度繰り返したのか。私の前に広がっているのは、どこまでも白い曠野だった。

「あー!煮詰まったーーー!!」

突如大きな声がして、私は「ひっ」と声を出す。見ると、水元さんがパソコンに向かって叫んでいた。

「あ、ごめん」驚いた反動で半分手を挙げたみたいな格好になっている私に気付き、彼女がにへらと謝る。「煮詰まっちゃって」駄目や、と照れたように笑った。

「上原さんは?」「あ、ちょっと」水元さんが立ち上がり、こちらの画面を見ようとする。手で隠そうとするが遅かった。そこにはばっちり、私の無能の証明としての白が刻印されている。

「……煮詰まってるん」

「…………うん」

パン、と水元さんは手を叩く。

「ほしたらさ、上原さん」「えっ?」「もう帰らへん?こういう時は気分転換やって。あたしアイス食べたい、アイス」

水元さんってこういう子だったんだ。なんか、意外だ。

 

 帰り道、空は奥の方から赤く暮れ始めていて、部室で過ごした無為な時間もそこそこだったんだと思った。アイスを食べたいと水元さんが言ったので、私達は途中にあるシャトレーゼに寄ることにした。あまり話したことのない人とこうして帰り道を共にするというのもなんだか不思議なもので、先月の定期テストの結果や学年で目立った子の話など無難な話題で渡っていく通学路は、いつもと違ってふわふわとした歩き心地がした。

 水元さんは今日一日でどれくらい物語を進めたんだろう?私は進める以前に書くべきものも照らすべきものも思いつかず、ただ空っぽだ。書くべきもの、書かずにはいられないものがある水元さんが羨ましいと、素直にそう思った。

「劇かあ」水元さんは、アイスの入ったクーラーボックスを物色しながらつぶやく。「脚本とかあたし書いたことないから全然わからへんねんけど」

「私だって書いたことないよ、劇とかアニーしか観たことないし」私はバニラ味のソフトクリームを手に取ってレジに運び、120円を支払って店の外へ出た。水元さんも私の後からやってきて、二人してシャトレーゼの入り口前に並んで突っ立つ。彼女はアイスボックスを買ったようだった。気付けばあたりは赤に染められていて、光の粒が散らばったみたいな薄い夕陽が私達を照らしていた。

「上原さんさあ」「うん?」「……親のことさ、殺したいとか思ったことある?」ぎょっとして、口をつけようとしていたソフトクリームから顔を離す。何を言い出すんだろう。

「親?なんで。ないよ」「そっかあ……」水元さんはアイスボックスを開け、ばりぼりと氷をかみ砕いた。「いやね、今書いてるのが連作短編なんだけど」「連作短編」唖然としておうむ返しする。私は短編ひとつ、脚本ひとつ書きあがらないというのに。「親を殺したいって思ってるこの町の子どもたちが各話の主人公で」「うん」「なんかいまいちリアリティが無いっていうか、凄みが足りないっていうか。やっぱりあたしの経験や想像力だけじゃどうにもならんってのがあってさ」

親を殺したいと思っている子どもたち。そんな主題や発想はどこから生まれてくるのだろう?水元さんの中にそういう物語があるということは、きっと水元さんはそれを書かずにはいられないということであって、それは彼女の内面になにか大きく起因しているものがあって、それが彼女を物語へと突き動かしているのだろうと私は推察する。あくまで推察するだけであって「お家大変なの?」などとは口がひんまがっても言えはしないし言うべきでもない。

「どうすればもっと本当のことが書けるんやろうって思うねんな。本ものっていうか」水元さんはまたアイスをがりがりとやる。「あたしだけやったらそれは、無理やから。上原さんにもしそういう経験があればなあ……みたいな。ごめん変なこと訊いて」何言ってもうてんねんはずかしーと、水元さんは眼鏡を直しながら笑う。

本当のこと。本もの。

「……あの、さ、水元さん」「ん?」「スティーブ先生っておるやん」

自然と言葉が口から出ていた。私はなんの話をしようとしているんだろう。

「スティーブ先生関西弁使うやん。アメリカ人やのにすごいうまいなあって思うねんけど、でもなんかやっぱ私らからしたらちょっとおかしいところもあるやん、スティーブ先生の関西弁。もちろんさ、私は英語全然出来へんで全然発音とかも判らへんから、アメリカで言うところの方言みたいなん使えとか言われても、そんなん夢のまた夢の話なんやけど。だから私、スティーブ先生ってすごいなって思うねん。好きで、頑張って、努力して日本語勉強して。すごいって思うんねんけど、やっぱりでも、それは本ものちゃうんやなって。私らみたいにどんだけ頑張っても、本ものにはなれないってことがあるんちゃうんかなって」

「んー」まとまりのない私の言葉に、水元さんは頭をかいて笑った。「それ励ましてくれてる?」

「え、いや……ごめん」

「あたしはそれでもええと思うよ、スティーブ先生」「え?」

「ほんまに日本好きやったら、関西弁喋れるとこまでいけるんやって思わせてくれるやん。それでいいと思う。ってか、本ものってあたしが言ったことやけどさ、結局、自分以外の本ものにはなれないんちゃうかなって。だってそうちゃう?あたしはあたしやし、上原さんは上原さんでしかない。アメリカ人にもなれへんし、もっと言ったらスピルバーグにも萩尾望都にも太宰治にもなれへん。でもなにかが好きで、なにか伝えたいことがあったら、そこにどれだけ近づけるかっていうのが大切なんちゃうんかなって」

夕暮れは気付けば濃さを増して、私たちを正面から強く照らしていた。

ふと、手に冷たさを感じた。見ると、ソフトクリームがどろっと溶けて私の手の甲に白く伝っているのだった。慌ててそれをなめとると、舌先に甘味が広がった。

「ちょっ、上原さんめっちゃ溶けてるやん!」水元さんが私の手元に気付き、声を上げる。「あー……やってもうた」「はよ食べな、日暮れてるし」

私は、スティーブ先生について水元さんに返す言葉はなかった。なんと言うべきかも判らなかった。ただ何か心の奥のひだに、少しずつ彼女の言葉がひっかかっていくような感じがした。急いでソフトクリームを食べると、口の中が冷たさでひりひりする。少し肌寒くなったあたりは赤から紺に変わり始めていて、不思議と風はなかった。

 

 家に帰り、私はノートパソコンの前でワードを開いている。相も変わらず、真っ白だ。

 今日水元さんと話したことを思い出していた。今までそれほど話したこともない水元さんとの話を。期末テストの点数。学年で目立っている子。親を殺したいと思ったことはあるか。スティーブ先生の関西弁。本もの。シャトレーゼで私たちを照らしていた赤い光。

 佐伯さんやクラスメイト達を満足させられるような脚本、それを書くよりも、今私に必要なのは、私自身が要請する、私自身が必要とする物語のはずだ。私は私以外になれないならば、何か大切な、遠くにある本ものにどれだけ近付くのか、それが重要なんじゃないかと水元さんは言った。きっと彼女自身も何か複雑なものを抱え込みながら、そんなことを考えている。

 私は私以外になれない。LとRの発音の差も判らない、どうしようもない私として、私は何を語るべきなんだろう?

 私は本を読むこと以外好きなものも特にない、物を書いたこともないただのつまらない人間だ。それでも、憧れはある。いつか、自分の書いたもので誰かの心を動かしてみたいと思っている。それにはまず、私の心を動かすような物語を書くことだ。私が大好きだと思えるようなものを書くことだ。本ものでも、本ものじゃなくてもいい。私にとって心が動かされるもの。私でしかない私が、何かの本ものに近付くために。

 私はキーボードに手を置き、文字を打つ。

 『贋作・斜陽』と、白い曠野に文字が浮かび上がった。