物語は溶ける『魔女の子供はやってこない』

物語は溶ける。

僕が受容する時、それは文字の連なりであったりシーンの繋がりであったり音のかたまりであったりする。ひとつの連なりとして、物語は僕の中に入ってくる。

でも、時が経つと、物語はするするとほどけていく。断片になる。

 

金曜日の朝、人事に呼び出されて会議室に入った。

「今の君には給料を払うだけの価値がないと思ってるんだ」

人事課長はそう切り出した。

「当社としては9時5時で働いてもらうのが原則というか大前提になってるんだけど、君は病気のこともあって離席が多いよね。トイレ、2時間に1回くらい?それじゃあ君は9時5時で働けてないってことになる。我々としては9時5時に昼休み1時間で働いてもらった対価として給料を払ってるわけだから、君と他の職員の給料が同水準っていうのはおかしい。給料を払っている意味がない。それともう一つ、君仕事全然出来てないよね。前の部署でもC評価で、今の部署でも上司の報告によると仕事がままなってない様子じゃないか。君の先輩は君の指導を本当によくやってくれている。諦めずに頑張ってくれていると思う。でも君は全く成長する様子が見られない。困るんだよ。君は総合職だし、我々としては総合職には将来的に経営者になってもらいたいと思っていて、なのに君は成長が見込めない。それなら成長が見込めない君に給料払ってる意味って何?無いよね。君が将来このままずっと昇給も昇格もなくていいってのならそれならそれで仕方がないけれど、まあ当然給与水準は他の総合職より下げざるを得ないだろうし。ともかくさ、君は今、9時5時でも働けない、仕事も満足にこなせない、何にも出来てないってこと。それなら我々としては給料払ってる意味がないってことになるよね」

準備してきたであろう言葉を、彼は一気に僕に浴びせた。

「それは、クビにするってことですか?」

僕は訊いた。

「いや、クビにはしないけどね。君がこのままでいいのかって話をしてるのこっちは。9時5時で働けるって言うならさ、お医者さんに行って診断書取ってきてよ。それが無理ならいっそ長期間休んで治すか、他の道探すとかさ、あるんじゃない」

事実、僕には治らない持病とうつ状態という心の病とがあり、2時間に1度は離席しなければならない。事実、僕は今の部署での仕事があまりうまくいっていない。言いたいことはたくさんあるはずだった。けれど何も言うことが出来ない。「2時間に1回の離席が駄目って、煙草吸ってる人はどうなるんですか」という言葉も声に出せなかった。僕の口からは問いが発せられた。

「それは、病気治さなきゃ辞めろってことですか?」

彼は「いやそうじゃなくて」と笑い、黙った。

 

席に戻ると、仕事でまたミスをやらかしていたことが発覚した。たっぷりと怒られた後、上司は「これを機にいらない書類整理しようよ、手伝うし」と言った。上司は僕のボックスに溜まった書類からバサバサと紙を分別し、当てつけのように不要なものを投げ捨て、「いらない、いらない」というような意味の言葉と僕の名前とをかけたジョークを言った。「それは、暗に僕のことを不要だと言ってるんですか?」僕は訊いた。

「そこらへんは勝手にしてくれよ」

 

席についた僕は、先週読んだ矢部嵩の『魔女の子供はやってこない』のことを思い出していた。

小学三年生の主人公、夏子が偶然拾った落とし物のステッキから魔女のぬりえちゃんと友達になり、「人の願いを叶える」魔女修行に巻き込まれていく物語だ。

と書くとなんだかファンシーポップな魔法少女物語をイメージしがちだが、実際のストーリーラインは人が死にまくり血と肉が飛び散るような、グロとナンセンスを凝縮したものになっている。それでもこれは、希望のある物語なのだ。

本作のテーマは、魔女のぬりえちゃんの家に入るための合言葉「地獄は来ない」という一言に凝縮されている、と僕は感じている。

自分が自分のことをどうしても認められないとき、どうしても許せないとき、自分はどうしたって善い人間にはなれないと思うとき、どうすればいいのか。そのやるせない問いに対する優しい答えを、『魔女の子供はやってこない』は提示している。

本作に登場するのは、大江健三郎が『万延元年のフットボール』で書いていたところの「内部の地獄」を抱えている人ばかりだ。治らない病気を抱えている男にその世話をしている女、家庭という泥沼に大事なものを全て奪われた主婦、過去の自分の行いを許すことが出来ない人間。彼らがぬりえちゃんという「魔法」に遭遇したとき、何を願うのか?何を叶えるのか?「内部の地獄」を抱えた人間には、諦念がある。自分はこの先どうしたってよくならない、自分はどうしたってここからは逃げられない、自分はどうしたってこの先許されることなんてない。その諦念に対する「魔法」=「救い」が「地獄は来ない」という言葉に集約されていると感じるのだ。

連作短編形式で綴られる本作の最終話、その救いがはっきりと提示される一節一節が僕は大好きだ。通勤電車の中や寝る前、会社のロッカーでも、噛み締めるようにしてその文章を繰り返し繰り返し読んでいる。そこには物語があり、救いがある。泣いたりもする。お前は存在する意味がないと言われ、不要だと言われ、治る病も治らない病も抱えた僕に救いは響く。

でも、物語は溶ける。忘れていく。ひとかたまりとして受容したはずの物語は、記憶の中で反芻するうち繋がりが細くなっていき、端々がちぎれ、少しずつバラバラになって、物語が文章に、文章が言葉や音に分解されていく。今も僕の中で『魔女の子供はやってこない』は、少しずつ音になっていっている。

そうして残るのは、物語が与えてくれた感情だ。そして運が良ければ、その感情を与えてくれた文章の一節も。

僕は『魔女の子供はやってこない』がくれた感情を、その感情を引き起こした文章たちを、出来る限り頭の中でつなぎとめておきたいと思う。

そのために読む。繰り返し読む。僕にとって救いになるからだ。

だからこれから先も僕は本を読むことをきっとやめないだろうし、やめたくない。

「消えないし。忘れたって」と主人公、夏子は言う。そのとおりだ。

僕には物語が必要で、その物語はやがて溶けてしまうけれど、物語がもたらした感情や言葉はなくならずに残ると信じる。

僕はこの「内部の地獄」を抱えながら、それでも「地獄は来ない」という言葉をきっと覚えていたいと思っているのだ。

 


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